波多野春房=波多野鳥峰

波多野, 烏峰(ハタノ, ウホウ) ハタノ, ハルフサ 日本人でイスラム教に改宗した波多野春房(Hasan Hatano) <(注5)>・・モスクワでアフガーニーと友人になったロシア 人のイスラム教徒と東京でイスラム新聞の共同編集者をやっていた ・・著の『累卵のアジア(Asia in Danger)』という 汎アジア主義のパンフレットさえあった 「波多野春房(烏峰)は前妻を離縁して18歳の秋子 <(1894〜1923年)>と結婚<したところ、> ・・・秋子は春房の学費提供により女子学院英文科に入学、・・・ 青山学院英文科に入学。・・・卒業後、・・・ 『婦人公論』の編集者となり、美人記者として名高かった。 妻に先立たれた有島武郎と劇場で席を前後したことをきっかけに 次第に恋愛関係となり、これを知った春房が武郎を呼び出し 金銭を要求。また訴訟を起こすとも告げたため、 大正12年6月有島と二人で失踪、軽井沢の別荘で心中した。」

・妻秋子が有島武郎と情死した後、春房に再婚話を斡旋した横田千之助は、「日活」の監査役であったこと。 ・大正4年には赤坂区台町五十番地に住んでいたこと。また、同年には、太陽通信社という通信社の社長だったこと。 ・大正4年6月5日、孫文は春房とともに外出して、春房が主催する松浦伯爵・立作太郎・吉野作造らとの会合に出席し、演説をしたこと。 ・保険協会在職中から銀座で画廊「三段社」を経営していたこと。 ・昭和9年か10年頃から長野県境村高森(現富士見町)に住んでいたこと。 ・敗戦後も高森に住んでいたが、1940年代から50年代初めにかけて、 波多野春房華族出身の妻 養女の波多野静江とともに高森を去り、新潟か富山に転居したと言われるが、 その後の軌跡は不明とのこと。 ・参考文献として永畑道子『花を投げた女たち』(文藝春秋、1990年7月)があること。 波多野春房華族出身の妻 その波多野の前妻である男爵令嬢日置(ひき)安子なる者の 談話が載っている。それによると春房の父は元吉野宮宮司・春麿で、 春房は米国から帰って英語教師をしており、 女子大の家政科に通っていた安子がそこへ稽古に通ったのは 二十三歳の時、明治三十九年十一月、 「横浜の観艦式へ二人で出かけた帰りに四谷のある旅館へ 連れ込まれて関係をつけられました・・・ あとで波多野が有名な色魔だといふ事がわかりました。 私より外にもなほ三四人も稽古に来てゐる女に関係が あつたやうです」と言っている。 安子は二人の噂が流れたので一時岡山の父のところへ 帰らされたのだが、波多野がつきまとうので遂に 同棲することになり新町に世帯を持ったとある。 『平成新修旧華族家系大成』によると 日置家は岡山藩の家老の家柄で、安子の父健太郎が 明治三十九年、男爵を受けている。 安子は次女で、明治十三年生まれだから、 四十年には数えで二十八歳。 さて結婚はしたがひどい窮乏生活で、三、四年後に 離婚したという。