波多野秋子との出会い
波多野秋子は中央公論社の『婦人公論』記者。
英語塾経営者であった波多野春房(烏峰)
は前妻を離縁して18歳の秋子<(1894〜1923年)>と
結婚<したところ、>
・・・秋子は春房の学費提供により女子学院英文科に入学、・・・
青山学院英文科に入学。・・・卒業後、・・・
『婦人公論』の編集者となり、美人記者として名高かった。
妻に先立たれた有島武郎と劇場で席を前後したことをきっかけに
次第に恋愛関係となり、
これを知った春房が武郎を呼び出し金銭を要求。
また訴訟を起こすとも告げたため、
大正12年6月有島と二人で失踪、軽井沢の別荘で心中した。」
波多野春房と18歳で結婚。
波多野春房の妻秋子の実父である林謙吉郎は、
梅屋とともに「日活」創設当時の取締役であったこと。
林謙吉郎
慶応元年9月10日生まれ。皮革商で貿易商の林家の養子となり,謙吉郎の名をつぐ。明治33年京浜銀行取締役となり,京阪電鉄や千代田瓦斯(ガス)の設立につくす。日本活動写真,東京瓦斯などの取締役もつとめた。大正9年8月28日死去。56歳。丹波氷上郡(兵庫県)出身。旧姓は長井。幼名は策太郎。
波多野秋子が夫にあてた遺書
春房さま
とうとうかなしいおわかれをする時がまゐり
ました。
○○おはなし申上げた通りで、
秋子の心はよくわかって下さることとぞんじ
ます。
私もあなたの お心がよくわかって
をります。
十二年の○ 愛しぬいてくだすつた
ことをうれしくもつたいなくぞんじます。
わがままのありつたけをした
揚句に
あなたを殺すやうなことになり
ました。
それを思ふと堪りません。
あなたをたつた独りぼつちにしてゆく
のが
可哀相で可哀相で たまりません
秋子
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