有島武郎

明治42年3月、神尾安子と結婚。東京で式を挙げた。 札幌の北2条の家で新婚生活を営む。安子は陸軍中将、神尾光臣の次女。彼女は武郎より11歳も年下だった。武郎31歳、安子は20歳だった。 国木田独歩が信子との結婚をめぐり、家庭内にひと騒動を引き起こし、北海道の石狩川のほとりまで逃避行を決行したが、有島武郎の場合は、信子との交渉はそこまで思いつめなかったようだ。 だが、独歩は、わずか半年の結婚生活で、信子とは破局を迎えた。この話は有島武郎の長編「或る女」にくわしく書かれているとおりである。「結婚といふ習俗的な割符は、たやすく彼の期待を砕いた」(「或る女のグリンプス(一瞥)」)と書かれている。 そして、《終焉》がやってくる。 波多野秋子とめぐり合う。――彼女は当時、中央公論の編集者だった。 大正12年6月8日の夕方、小さな風呂敷つつみを抱えて彼は行き先を告げずに家を出た。新橋で落ち合った波多野秋子と軽井沢に向かった。 ふたりは激しい雨の音を聞きながら、9日未明、愛宕山のふもとの別荘浄月庵の応接室で、ともに現世の別れを告げた。そのことは、7月7日に遺体が発見されるまで、だれにもわからなかった。 世の常のわが恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき 自宅の書斎に残されていた歌稿のはじめの1首である。 心中するまえ、彼の「惜しみなく愛は奪ふ」という作品について、自身、こうのべている。「愛を奪ふとはいってみたところで、実際には少しも奪いはしない」と語り、実質的にはこれまでの楽観的な人生観を放棄している。 しかし、妻・安子に死なれてから、有島は女性と無縁であったわけではない。 長編「或る女」を執筆していたとき、円覚寺の別院にこもり、近くの茶屋の女と肉体関係を持っているし、円覚寺の近くにある寿司屋の娘とも愛人関係になり、帝劇の女優・唐沢秀子とも恋愛関係ができた。それも長くつづいた。また、地方代議士夫人からもしつこく追いまわされていた。 有島は、女にはひどくモテたようだ。 東京小石川(文京区)出身。父は薩摩藩士で大蔵官僚、実業家の有島武(同墓)と母の幸の長男として生まれる。弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見とん。 妹の愛は三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ。 4歳より横浜英和学校に通い、10歳で学習院予備科、19歳で学習院中等全科を卒業し、農学者を志して札幌農学校に入学した。 札幌農学校在籍時の校長は新渡戸稲造(7-1-5-11)。内村鑑三(8-1-16-29)の感化をうけて、1901(M34)札幌独立基督教会に入会する。 卒業後、軍隊を経験し、'03米国に留学しハーバード大学などで学ぶ。ホイットマンやイプセンらを愛読し、汎神論的傾向が強まる。 ヨーロッパを外遊し、'07帰国。再び予備見習士官となり、後に母校の英語講師をつとめる。弟の生馬を通じて志賀直哉や武者小路実篤らと出会い、人道主義の立場に立ち「白樺」同人として活躍。 白樺派の中心人物として『かんかん虫』『お末の死』などの小説や評論を発表した。その間、信仰的懐疑が深まり教会や内村から離れた。 16(T5)妻の安子の死を契機に本格的に文学に打ち込み、小説『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』『或る女』、評論『惜しみなく愛は奪う』など、下層階級の女性を描いた作品を多く発表し人気を得る。 '19発表の『或る女』を絶頂期に、段々と創作力が衰え、小説『星座』を執筆途中で筆を絶つ。 また翌年、婦人公論記者の人妻の波多野秋子との恋愛と夫からの脅迫もあり、同年6月9日二人は軽井沢の浄月荘の別荘で情死。享年46歳。 遺書には「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と記され、その通り、死体は7月7日に二人の死体は面相も分らないほど腐乱して発見された *お墓は入り口正面に両親の有島武・幸子の墓、左に「有嶋行直家累世之墓」、その向かい(道に背を向けて)武郎と若くして亡くなった妻の安子のブロンズがはめ込まれているお墓がある。 *有島武の娘であり武郎の妹にあたる愛は、軽井沢の鹿鳴館の旧三笠ホテル経営者であった山本直良に嫁ぎ、その息子の山本直正の妻は与謝野鉄幹と晶子の次女の七瀬と結ばれていることから親戚筋の関係にあたる。  なお、直三の三男の山本直忠は作曲家、指揮者として活躍し、その息子の山本直純も「男はつらいよ」「マグマ大使」などを作曲した作曲家、オズ・ミュージック代表取締役を務めた指揮者であり、更に直純の妻の山本正美も作曲家、長男の山本純ノ介も作曲家、次男の山本佑ノ介はチェリストと音楽一家である。