有島武郎 作品

カインの末裔

アダムとイブは楽園を追われたのちに2人の子 カインとアベルをもうけたが、 農夫のカインが羊飼いのアベルとともに神への捧げものを した時、弟の供え物のみが受け取られたに 腹をたてたことをきっかけに、弟を殺してしまう。 弟を殺したカインの心の中にあったものは、 妬み・憎悪であり、聖書は、 人類は皆このカインの末裔なのであり、 われわれ人間は生まれながらにして積み深い心を 持っているということを論しており、 信仰の大切さを説いている。


かんかん虫

労働者の暴動を、観念的に把握し共感する視点である。 当時、労働者の暴動は頻発し、 官憲による大逆事件は進行していた。 「かんかん虫」は、その渦中にあって、 時代に呼応するようにして書かれた小説であるといってよい。


或る女のグリンプス(のちに「或る女」として刊行)

主人公早月葉子(さつきようこ)は強烈な自我の持主で, 因襲と束縛を断ち切って生きようとする新しい女であるが, 生の源泉を男性にだけ求めようとし, 経済的にも男性に頼る女性である。… 「キリスト教婦人同盟副会長を母にもつ早月葉子は、 美貌で多感、才知溢れる進歩的な女性である。 旧弊な周囲に反発して、従軍記者として名声をはせた 木部孤?と恋愛結婚するが、2ヶ月で離婚する。 その後両親を失った葉子は婚約者木村の待つアメリカへと 船で渡る途中、事務長のたくましい魅力の虜となり、 そのまま帰国してしまう。 国木田独歩の恋人をモデルとして話題をよんだ作品」 「或る女」の冒頭は古藤という青年と葉子が連れだって、 アメリカ行きの切符を買いに横浜に向かう場面からはじまる。 その列車のなかで自分に向けられる執拗な視線に 葉子は気づく。離婚した木部孤?(こきょう)だった。 ここで葉子の来し方と木部との回想がはさまれる。 葉子には木部との間に女の子がいた。 しかしそれは木部と離婚したあとに出産したことなので、 木部はこのときその事実を知らない。 二人は一言も交わさないまま別れる。 横浜の宿に疲れた体を休めた葉子は、 古藤に媚態を示し誘惑しようとするが、 古藤はなびかない。葉子は心でつぶやく。 Simpleton!(註)と。 母親の遺言にしばられ、親戚中からは厄介者扱いにされ、 二人の妹たちの行く末を案じて、 木村と結婚せざるを得なくなっていた葉子は、 自分のやるせない気持ちを持て余していたのである。 (註・機転のきかぬばか正直という意味。)


クララの出家

夏には夏の我れを待て。 春には春の我れを待て。 夏には隼たかを腕に据えよ。 春には花に口を触れよ。 春なり今は。春なり我れは。 春なり我れは。春なり今は。 我がめぐわしき少女おとめ。 春なる、ああ、この我れぞ春なる。


酒狂

お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或いはいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。 愛と憎しみとは、相反馳する心的作用の両極を意味するものではない。憎しみとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎しみではない。愛の反対は愛しないことだ。 畏れることなく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底に何があるか。もしその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。 愛の表現は惜しみなく与えるだろう。 しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。 苦労なくして快楽はありえない。 「容易な道を選んではならぬ。 近道を抜けてはならぬ」 「畏れることなく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底に何があるか。もしその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない


生れ出づる悩み

北海道岩内(いわない)で漁師をしながら、 画家になる志望を捨てず、 家業と自己の表現欲との相克に悩む青年を、 語り手の聞き書きによって描いた作品。 主人公木本は、実在の画家木田金次郎をモデルにするが、 作者の意図は、彼に感情移入して、 自らの芸術的衝動のありようを対象化するところにあった。


凱旋

意味:戦いに勝って帰ること。


勃凸が後生大事に懐に入れていた 亡き母親の骨をなくす挿話を通じて、 社会におけるアウトサイダーの悲哀を描いたこの小説